2月のはじめの日

 今日から2月がスタートする。2月はわたしの誕生月で、明日2日は父の命日。珍しく昨夜は一度も起きることなく、8時間も続けて眠った、そのためか体調はいいのだが、気持ち的には不安定である。
 父が91歳で亡くなり3年たつ。亡くなる前の年の12月初めに、療養型の病院から家に帰り、家で2か月弱、療養生活を送った。24時間、痰の吸引が必要で父を家に迎える前に吸引機の使い方を習い、なんとか気管支に痰を吸引する細い管を入れることができるようになった。喉の奥ではなく、気管支から痰をとらないと呼吸がじゅうぶんにできなくなり、血中の酸素濃度が低くなり苦しくなるのだ。
 家に帰ってから、夜寝る前はもちろん、夜中に最低一回は起きて痰の吸引をした。朝は早朝に吸引した。1日何回くらいしただろうか。かなりの回数になったと思う。週に2回看護士さんが家に来た時は、看護師さんに吸引をしてもらったがあまり上手でない人もいた。
 父が家に帰り最初の頃は、痰が詰まって呼吸ができなくなることを危惧し、かなり頻繁に吸引をしたのだが、だんだん慣れるにしたがって、5時間程度は吸引しなくても大丈夫なことがわかり、回数を少なくすることもあった。
 父が亡くなったのは早朝だが、その前の夜はミキサーでどろどろにしたおかゆや、温泉卵、ミキサーでピューレ状にしたホウレンソウなどの食事をいっぱい食べ、わたしが用意したものをすべて平らげた。おかわりを冷蔵庫から出して温めて出したほど。
 その夜は食事の後片づけをした後、父の吸引をして、いつもより早く自分の部屋に戻り、柴犬のレオとテレビを見るなどして過ごしていた。その日の夜中は起きて父の様子を観にいかなかったが、こちらの疲れもたまってきて、そのころは夜中に起きれない日もあったのだ。朝5時半ごろ起き、父の部屋に行ったら、息を引き取っていたのである。
 家に帰ってきた父の介護をしながら、なんとか春までは、と思っていたが果たせなかった。吸引用の管、医療用の手袋、食事にとろみをつける添加剤など、たくさん買い込んで、わたしはただ春までは父がこの家にいるもの(いや、いてほしい)と思い込んでいた。そんな気持ちとは関係なく、あっけなく父は逝った。
 もっと、夜中の時間の父を頻繁に見てあげていたら、と思うこともある。同じ部屋か隣の部屋に眠るという方法もある。だが父は夜から夜中に目を覚ますと「おーい」「おーい」と声を出し、こちらが様子を見に行くまでやめない。入浴中、ずっと叫んでいたこともある。隣にいたら、わたしは夜眠れなくなるだろう。昼間は父の食事の用意にかなり時間がとられ、吸引もする必要があり、まとめて眠る時間はない。せめて夜だけでもある程度眠らないと長続きしない。
 気持ちでは春までは、とがんばっていたが、実際は体力的に限界だったのかもしれないと今になって思う。
 家に帰ってきた父を介護しているとき、柴犬レオはすでに脳の変調はあったがまだそれほどでなく、あまり手がかからなかった。時々スイッチが入ると興奮して走り回ることがあったが、夜はふつうに眠っていた。家に頻繁に訪れる看護師さん、医師、ヘルパーさん、ケアマネージャー,マッサージ士、訪問入浴のスタッフさんなどに対しても人見知りすることなく、接していた。ただ、わたしがレオをかかまうことは少なめだった。レオにかわいそうなことをしたと思うこともあるが、レオはきっとわかってくれていただろう。
 レオの脳の変調が老化だけでなく、家族がだんだん少なくなり、父が入院したり、家に帰ってきたり、またいなくなるなどの環境の変化に原因があるとしたら、本当に申し訳ない、すまないことをしたとずっと思っている。


午後から庭で咲いた乙女椿を描いた
鉛筆でスケッチ、水彩色絵具で彩色
椿の前に白梅を描いたがうまく描けないので、描きなおすことにした


午前中は一日早い命日のお墓参りへ。薄いピンクのユリ、濃いピンクのストック、黄色の房咲スイセン、庭の紅梅を持って行き、手向けた。仏様の花らしい花はあまり好きでないので、春の花尽くしでまとめた。
 家に帰り、新しく買ったパソコンのリカバリーディスクを作成。1時間40分ほどかかった。これで、パソコンの調子が悪くなっても、最後の手段、リカバリーができる。