わが心のケヤキ

ちょっと大げさなタイトルだが、とても愛着のあるケヤキの木がある。
このあたりはケヤキの大木が多く、個人の家の庭にそれぞれ特徴のあるケヤキの木があって、それらを眺めるだけでもけっこう楽しい。
なかでも愛着を持っているのが、道路側にはみだす勢いで生えているケヤキで、どの木にもない特徴がある。
落雷か何かで太い幹を破壊されて、木の半面に大きな傷跡があるのだ。
痛々しいがこの傷を持ったまま、ケヤキは芽ぶきや新緑の季節を迎え、夏はその下に大きな木陰をつくる。
晩秋には大量の落ち葉を落して、近所の家の奥さん方は落ち葉の掃除にいそしむことになる。
この傷がなかったら、もっと立派なケヤキの木としてこのあたりに君臨(?)できたかもしれないが、
この傷があるから、ケヤキの木はわたしに特別な感情を抱かせる。
この感情は、「共感」ということばがふさわしいかもしれない。
こんな大きな傷を負いながら、ふつうに生を営んでいることへの。


このケヤキの木のかたわらには一軒の小さな家が建ち、自転車屋を営んでいる夫婦がいた。
ご主人が病となり、廃業し、この家から引っ越して今は無人の住み家である。
この家とともに、ケヤキの木もなくなるかもしれない。
更地に新しい家を建てるために。
このケヤキの木に春は訪れないかもしれない。
たくましく冬空にたくさんの枝を放射状に伸ばす木を見ながら、
もういちど、このケヤキの芽ぶきを見たいと切に思った。