庭に冬、到来

 昨夜は老犬レオが3時ころ起き、部屋をよろよろしながら歩き回った。夜中にした最後の散歩で用を足したので、これはトイレではないなと思い、外には出さなかった。しばらくすると部屋の隅に顔を入れて立ち止まったので、抱き上げ寝かせた。
 こんなことがあり、朝は遅めに起きた。雨戸を開けると、裏庭には柿の落ち葉が埋め尽くす感じ。とうとう、ここまで来たか。冬だな。見上げると柿の葉はまだたくさん残っていて、この大量の落ち葉がしばらくは続くのだろう。でも長くはない。柿の葉はいつもどさっと落ちる。
 レオもすぐ起きたので、フリースを着せて外に出した。家の前の道路に出ると、日差しがぽかぽかしていたので、フリースを脱がせ、日光浴。レオは足元がおぼつかないが自分であちころ大回りに歩いている。そのうち、おしっこをした。わたしは道路の落ち葉の掃除をせっせと。ある程度歩くと自分で門扉の中に入ったので、抱いて庭に行き、放した。
 今度は庭の落ち葉を掃き集めた。庭に数か所掘った穴に落ち葉を投げ入れる。ゴミ袋にも入れる。柿の木の側に新たに穴を掘り、柿の葉をほうりこんだ。
 落ち葉を竹箒で集めながら考えた。これが一万円札だったら、どうだろう。落葉樹にとっては、いや自然にとっては、落ち葉は一万円札みたいなものかもしれない。分解され、土に戻り、自らを育む栄養になる。未来への投資でもある。
 もし、この大量の落ち葉にようにわたしの手元にお金が回ってくるときは、ひどいインフレになったときだろう。自然界は落ち葉のインフレ(落ち葉が大量に出る)さえ、自然循環のひとつとして、命を育むために生かすが、人間は同じように大量のお金が市中に出回ったら、自然界のように上手に自分たちの生活や人生、社会全体に活用できるだろうか。
 前は落ち葉をゴミとして扱っていたが、畑や花壇に野菜や草花を植えるようになってから、落ち葉は腐葉土の原材料になった。自然に帰して、次の豊かな命を育むための。

紅葉したソメイヨシノ
日当たりがそれほど良くないので
色づくのが遅くなる

柿の葉っぱはまだ緑色だが
どんどん落ちてくる

こんな具合に
この落ち葉をきれいに掃き集めたが
夕方は同じくらい落ちていた



 今日は父のお墓参りに行くつもりだったが、朝遅く起き、レオの世話や庭の掃除に時間がかかり、しかも身体がだるく風邪気味だったので中止した。だがレオの抗てんかん剤が半錠しか残っていないし、トイレシートも一枚しかなく、夕方車ででかけた。動物病院の午後の診察が4時から、だからだ。
 ほんとうはもっと早くレオが寝ている間にでかけたかった。タイミング悪く、動物病院に電話し、でかける準備をはじめたら、レオが起きた。多分、外に行きたいのだろうが、しかたなかった。小一時間もレオにつきあうと、暗いなり、風邪気味のわたしは外出したくなくなるだろう。
 玄関までレオがついてきて、訴えるようにわたしを見上げる。後ろ髪をひかれつつ、でかけた。
 運悪く、病院近くの駐車場がいっぱいで車を止めるのに手間取った。帰り、食料品とレオのトイレシートを買いに、駅前に寄ったが、ドラッグストアにトイレシートはなく、がっかり。明日、ホームセンターに行くしかない。
 銀杏が真っ黄色に色づいた並木道を通り、家路を急ぐ。門扉のあたりでレオの泣き声。あわてて家に上がると、いつものソファの隙間に入り込み、立っている。下にはうんち。
レオを隙間から引っ張り出すと、トレイシートにおしっこをしていた。いつ頃から、ここで泣いていたのかはわからない。今日はでかける前に、多分、用を足したいのだなとわかった。だがしかたなくでかけた。
 本当に困ってしまう。レオを優先させると、こちらの用事が何もできなくなることがある。瞬間移動ができたら、どんなにいいだろうと車を運転しながら思った。
 レオはお湯で薄めた牛乳をたくさん飲んだ。のども乾いていたのかとわかいそうになった。朝から数回、(あいにく牛乳がなく)お湯をあげたが、そんなには飲まなかった。大小の用を足して、喉がかわいたのだろう。いちばんわたしがいなくてはいけないタイミングにでかけてしまったようだ。

十四夜の月を眺めながら、レオと夜の散歩をした。さっき家で用を足したから、もうおしっこはしないと思ったが、ゆっくりと商店街まで歩いた。おしっこはまだかという気持ちで散歩することが多いが。それではレオがかわいそうな気がした。
 出かける前にレオの外に行きたいサインを察知しながら応えられなかった。こちらの都合でレオを外に出すことが多いのではないかとも思った。なるべくレオの要求に添うようにしているつもりだが。

「老犬にすまないの気持ち抱きつつ共に歩く冬の十四夜」