スピリチュアルな15分

 朝からさわやかな秋晴れ。老犬レオは昨夜3時に起き、道路に出ておしっこをしたので、まだ起きる気配がないようだ。
 数日前、なんとはなしに、朝お参りする仏壇のロウソクをつけたままにしておいた。いつもなら、お線香をあげてお参りがすめば消すことにしている(防災上の意味でも)。
 短いロウソクで、隣の部屋にずっとわたしがいたので大丈夫と思った。ずっと思っていたことだが、ロウソクを灯すと父母の遺影が明るく照らされ、つかのま命の炎が灯されたような気になる。
 つけたままにして、わたしは紅茶を飲んだり、ときにパソコンをいじっていたり。レオをかまったり。ときどきちらっと見て、炎が燃えているなと確認する。なにかをしていて、気が付いたら燃え尽きていたこともあった。
 ただ、いつも、朝と夜の仏壇のお参りがそそくさと形式的になっていたので、どこか違うなと思っていた。父母と向き合う時間を長めにとってみたい。ロウソクの灯を灯し続けることはそういうどこか違うなに対する、ひとつの回答だ。
 ロウソクが燃えている間、父母がそこにいるような気にもなれた。紅茶を入れて、いっしょに飲んでもいいなと思った。

 このロウソクが燃える長さは15分。ずっと炎を見つめていれば長い15分。だが何かをして気づけはすぐたってしまう、短い15分でもある。
 父母とこの家にいっしょに暮らしたとき、15分の間、話をしたことがなかったような気がする。いつもいっしょにいたので、意識して向き合うことがなかった。父母のことをよく考えるようになったのはこの世の人でなくなってからだ。
 短く長い15分だが、一日も一週間も一カ月も一年も、この15分の積み重ね。わたしはいつもバタバタと何かの用に追われて過ごしているような気がした。未来に向けた今日の15分を過ごしているだろうか。積み重ねの向こうに何があるのだろう。短い時間でも積み重ねれば大きな時間になる。このことを考えた。
 老犬レオと過ごす時間は意識して、寄り添う時間を長くしている。もちろん、レオを庭に出して放ったまま、庭の掃除や庭仕事をすることはよくある。いつもぴたっとそばにはいられないにしても、前より、ぴったりする時間が多い。
 足元もおぼつかないレオにとって、わたしがすぐそばにいるほうが安心でき、心強いと思うから。ふらつくレオの身体を、わたしの身体で支えながら、じっとしていることもある。そんなとき、ふらつきながらもレオがわたしから離れて歩いて行くこともある。歩けるなら、歩いたほうがいい。そばで見ているよ。

午前中遅くなって起きたレオと、駐車場で過ごす
しばらく道路と駐車場を歩いていたが、疲れたのか眠ってしまった
通りがかった近所の人と世間話をしている間、ずっと寝ていた
日差しがあたたかく、気持ちがいい