半夏生が咲いた、近くの川辺に

 この川に半夏生が咲くと思い出すのは柴犬レオの晩年だ。6月15日に他界したレオ。いつもと同じように庭の青梅を収穫し、もろもろの梅の加工品を作り、熟した梅を梅干用につけるなど忙しい毎日を送るなかで、とつぜん死んでしまった、も少し頑張ってくれると思っていたが、振り返ってみるとレオは玄海ギリギリまで頑張ってくれたのである。あのときはわたしは気づいてあげられなかった。

 半夏生はこんなことをすべて思い出させる花だ。

 あれから10年の歳月が流れたがいまのわたしはどうだろう。毎晩、眠る前はレオとももこの写真に向かって、おやすみという。ときには助けを求めるように写真を見ることもある。わたしの中の2割ほどは死んだ犬や人と生きているような気もする。レオが死んだばかりのときは8割ぐらいの部分で死んだ犬と生きていたから、今はマトモニなったと言えば言えるだろう。別にまともになんかなりたくないが、自然な成りゆきを受け入れただけ。

 今日は短歌をたくさん詠んで、一部はワードに入力した。多くはスマホのキープメモに記録した。

 愛知県の知り合いの方に手紙の返信を書いた、今年の二月半ばころに会ってから、何通の手紙、葉書をやり取りしただろう。わたしと知人は重なりあうところが少ないと思うが、お互いの興味を言葉で伝えることを楽しんでいる。嫌だったらこんなに何回も手紙を書かないだろう。

 ただ、最近は急速に誰かと親しくなることに用心深くなりつつある。


f:id:leoleoleoya:20230604171407j:image


f:id:leoleoleoya:20230604171433j:image


f:id:leoleoleoya:20230604171449j:image