正月の買い物をしてその足でオリンピック公園へ

 今日の東京もすごく寒い。

 居間のエアコンを23度に設定してもそんなにあたたかくならない。いままでは最初22度、あたたかくなってからは20度にしていた。

 掘り炬燵のヒーターも弱プラス3に設定。弱と強の間に7目盛りあり、7の次が強になる。

 炬燵に入って図書館から借りて来た本を読んだ。借りて来たばかりのときは、自分で借りておいてなんか面白くなさそうに見えた本がなぜか読みたくなった。『現代短歌100人20首』という本で平成13年(2001年)9月に発行されている。現代短歌と銘打っているが、中身を見て少し古い感じがしていちどは読む気がなくなった。変な言い方だが最新の現代短歌について知りたかったので。

 だがよく読んでみるとそれなりに面白いと感じた。2001年時点での現代短歌と、令和3年(2021年)に置いての現代短歌では、20年の歳月が流れている。その歳月を差し引いて、たぶん2001年の現代短歌がより徹底されているのが20年後ではないかと類推して読むことにした。

 ただ、歌人松平盟子さんが2000年に入ってからの短歌の言葉は、それ以前と全く変わったと話しておられた。そうするとこの本はまったく変わる前の短歌が集められているわけで、今現在の現代短歌を知りたいわたしには物足りないのではないか。それでも読んでみようと思っている。

 本を読みつつ、自分の短歌を詠んでノートに記した。

 こんなことをして午前中を過ごし、昼食後は少し休んだ後、車で駅前のスーパーマーケットに買い物に行った。買いたいもののメモを持っていった。買いたいものすべては買わなかった、肉類、魚などはもう少し後にして、日持ちのするものを中心に買った。スーパーマーケットの2階にあるマツモトキヨシでも少し買い物をした。

 車に買い物を乗せて寄り道をした。

 駒沢オリンピック公園の方向へ。駐車場に車を入れ、公園を歩いた。柴犬レオを連れて数えきれないほど散歩に来た公園だ。レオが死んだあと、ひとりになってからもなんども来た。レオと来た時、ひとりで来たときが記憶のなかで混じりあっている。これはレオがいたとき、と特定できる思い出もあるが、あれはレオがいた時だったか、それとも一人で来た時だったか、よくわからない記憶もある。

 一人でこの公園に来た時の寂しさはいまも心に残っていて、その時の寂かったわたしをこころからかわいそうと思えた。だが現在のわたしは寂しさの質が違うのである。あの時の寂しさは痛みをともなうものだったが今は痛みは消えている。

 唐楓の落ち葉(落ちたばかりの時は黄色だったと思う)がすっかり枯れて、茶色に変わり、地面をふかふかやわらかくしている。スニーカーで歩きながら、枯葉が靴に優しいと感じた。時間が過ぎて、痛みを伴う寂しさが和らいだように、積もった枯葉が寂しい靴を受け止めてくれる。

 西日がまぶしい公園を少し歩いた。公園にはストリートスポーツができる広場があった。柴犬レオとよく散歩したころ、その後一人で来た時にはなかったものだ。スケートボードインラインスケートのための練習場だ。アルファㇽトの地面を打つ音が鋭い。しばらくフェンス越しにスケボーに励む少年たちを眺めた。

 スケボーを持つ小学生低学年くらいのこどもを連れている男性が、赤子も抱いていて、この男性も10代にはスケボーをしていたのではないだろうかと思った。ここにいる少年たちも10年くらい後には自分の子どもを持つ年齢になるのだろう。

 まだ夕日が落ちる前の街を車で家に向かった。もうヘッドライトをつけている車もちらほら。わたしもヘッドライドをつけて帰った。

 

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駒沢オリンピック公園、雲のない青空が広く広く見える

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